「原発は利益の問題ではなく生き方の問題である」南相馬在住作家・柳美里が突きつける、原子力政策の誤り
芥川賞作家・柳美里に聞く「原発が壊したもの」
原発事故から6年がたった今もさまざまな課題が残っている中で、福島県南相馬市に在住する作家・柳美里は事故をどう見つめているのでしょうか。著書『人生にはやらなくていいことがある』で振り返った、自身と日本人の生き方。
齟齬を生み出す原発事故と国の政策
震災前、南相馬市の人口は7万1561人でした。原発事故直後は1万人を切るまでに減少しましたが、2016年10月31日現在の実質人口は約5万7000人です。
市役所に問い合わせたところ、住民基本台帳登録人口は6万3215人だということですが、住民票はそのままにして、市外で避難生活を送っている人が約6000人ほど居るそうです。南相馬だけで1万人以上居るという除染や原発の廃炉や復旧・復興事業の作業員を含めると、総人口は7万人くらいになります。
わたしは南相馬市民であり、原町区民なのですが、鎌倉から転居した時、原町の人に「原町にようこそ」とは言われましたが、「南相馬にようこそ」と言われたことはありません。
相馬地方の俗謡に「鹿島貧乏、道楽小高、身上あげるは原の町」というフレーズがあります。
万葉集や金塊和歌集にも地名「真野の萱原」が詠まれている古代東北文化の中心地で、近代では農漁業を柱に、早場米産地として知られる鹿島町と、小高城廃城後も宿場町として発展し、現在も当時の地割の名残を留めている小高町と、明治31年に「海岸線」(8年後に国有化され「常磐線」となる)が開通され、機関区のあった原ノ町駅を中心に商業や遊興の地として成長していった原町市とは、歴史的背景も雰囲気も大きく異なります。
「平成の大合併」と呼ばれた全国市町村合併で、2006年1月1日に鹿島町と小高町と原町市が南相馬市として統合された僅か5年後に、東日本大震災に見舞われたのです。
原発事故による避難区域の線引きがたまたま旧自治体の区割りと重なり―全域が原発から半径20㎞圏内に入る小高区(精神的苦痛への補償、家屋の財物補償が出る)、全域が30㎞圏内に入る原町区(国民健康保険の一部負担金の免除、高速道路の通行料金の無料措置がある)、ほぼ全域が30㎞圏外の鹿島区(補償や無料措置は一切なし)―住民を分断してしまいました。
小高区の原発事故の「被災者」が暮らす仮設住宅は鹿島区に集中しています。
2011年当時、30㎞圏内に仮設住宅は建設できなかったのです。
津波で、家族や家財を失った圏外の「被災者」も同じ仮設住宅に入居しました。
補償のある人と補償のない人が同じ場所で暮らすと、摩擦が起きてしまいがちです。南相馬市なんかやめて、元の3つの自治体に戻ればいい、という声もちらほら聞こえてきます。
こうした齟齬を生み出した張本人は、原発事故であり国の政策です。
被害を受けた住民に非はありません。
家族同士や住民同士の親密さは、住まいと暮らしによって培われます。
それを原発事故は毀損してしまったのです。
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